筆跡診断・グラフィアス-自分を見つける、自分を変える筆跡診断- ホーム≫柳澤由伽理の筆跡コラム~グラフォロジー@マンス
    
                                  
    

  新連載~日蓮
  
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2007/12/24 NEW!!
  雑感~縦書きは日本の文化
  ■
2007/10/28
  《日蓮》五輪九字明秘密義釈
  ■
2007/7/25
  《日蓮》その人生と筆跡 
  
  紀行-1~一休宗純
  ■2007/06/19

  《線衝突型からみる一休宗純》
  最終回
  ■2007/05/19

  《筆跡特徴〔線衝突型〕》
  ■2007/04/02

  《筆跡学から見る一休宗純の志》
  ■2007/03/11

  《一休宗純のこころざし》
  ■2007/02/06
  《筆跡学から見る一休宗純》
  ■2007/01/31
  《一休宗純の人生》
  ■毎日~《ひと休み》




    平成二十年 元旦
      柳澤 由伽理

























  
  
  「五輪九字明秘密義釈」
  
  
  
  「立正安国論」


  
  「歓心本尊抄」































   
   大燈国師上堂語・一休宗純
     東京国立博物館蔵
 
筆跡歴史紀行-2~歴史的人物を尋ねて~日蓮

筆跡歴史紀行その2のテーマは《日蓮》。

 日連の有名な書、
 
 「立正(りっしょう)安国論(あんこくろん)」
 「五輪(ごりん)九字明秘密義釈(くじみょうひみつぎしゃく)」
 「観心(かんしん)本尊抄(ほんぞんしょう)」

 の3点を題材に、書かれた時の心の動きがどのように筆跡に表れているかを
 シリーズで解説していきます。
 

ここで一年を締めくくり雑感を。

■《縦書きは、日本の文化》

 先月朝日新聞に、平成十七年二月大阪の小学校に卒業生の少年が包丁を持って侵入し、応対した男性教諭を刺殺、二階職員室にいた女性教諭と栄養士に対しても重症を負わせた事件で、事件を起こした少年が広汎性発達障害であったという記事が載っていました。
 また、奈良の医者の息子が自宅に放火し、義母や異母兄弟を殺してしまった事件の少年も、佐世保の小学校内で同級生を殺害した、小学校六年生の女の子も、静岡で母親に毒物を投与した十六歳の少女も、この広汎性発達障害であったと書かれていました。

 広汎性発達障害には「情緒的相互性の欠如」や「強迫的傾向の字義通り性」などがあげられます。「情緒的相互性の欠如」は、本人の喜びや悲しみといった情緒性が抜け落ちている為、他人が気分を害したり、自分に対し憎しみを持ったとしても、それらを理解する事は出来ないと言う事です。
 「強迫的傾向の字義通り性」とは、文字の表す通り、冗談は一切通じないだけでなく、その冗談が脅迫性を帯びて、言われた者を苦しめてしまうのです。

 何でこんなにも心に障害を持った子供が多くなったのだろうと、心が痛みます。
 
 気遣い思いやりにおいても、少し前までは誰しもが持っていた筈です。例えば鋏を相手に渡す時、自分は刃の部分を持ち、相手に握り手を差し出します。この行為は思いやりや能率重視だけでなく、私はあなたに危害を加える事はありませんとの意志表示でもあります。表現力の未熟さが平和に暮らす事の難しさに繋がるのでしょうか。年齢が下がれば下がる程難しさが増している様に思えます。

 日本の明日を担う子供達に私が出来る事、それはヨーロッパの様に学校や職場において、生徒達の筆跡を診断し、情緒を見極めてあげる事と、筆を使い心地良さを、感じる字を書く手伝いをする事であろうと思います。

 明るく、元気な字を書く事で、明るく、元気な子供に育ちます。皆で文字を書きましょう。近代文明を取り入れる事も大事ですが、日本文化を理解する事も重要です。
 
 便利と言う名の、機械に使われていませんか?
 機械を使いこなしてこそ、人間です。

2007/12/24
   


「五輪九字明秘密義釈(ごりんくじみょうひみつぎしゃく)」

 「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を上呈する9年前、1251年日蓮29歳の時の書から見てみる事にしましょう。 覚鑁(かくばん:新義真言宗を開いた人)の著述である「五輪九字明秘密義釈」(ごりんくじみょうひみつぎしゃく)を写した書です。

 一本一本の線が細く、日蓮の秘めた力強さの中に、研ぎ澄まされた繊細さを感じさせる文字です。
 細かく見て行くと、「普」の字の中の〔日〕の左の縦線と、上部の横線。「信」という字の〔口〕の一画目と2画目もそうですが、縦の線と横の線がピッタリとついています。また、2画目の左から右に書き、下に折れ曲がる部分は、鋭角に折れ曲がって書かれています。
 これらは宗教と言うものを深く学び、そして学んだ事をそのまま修行という行為に投射した日蓮の清らかな学びの心と、ひたむきな修行の行為が表れてます。これらの筆跡特徴は真面目な心と、几帳面な行動を持つ人の筆跡特徴であり、割と多くの人の字に見られます。

 これから見て頂きたい筆跡特徴は、とても珍しい特徴で、「徃」の長く伸びた縦線が上の「次」の字の中に入り込んでいます。他にも「法」の縦線が上の「聞」の門構えの内側から引かれています。
 これは、合気道でいう「寸止め※」の状態に似ています。

 日蓮が勉学に励んだ結果「法華経」に辿り着き、いつでも弘教(ぐきょう:仏教の経典を世に弘めること)という行動に移せる状態にある」にある事を、表している筆跡です。

 (※寸止め: 空手や格闘技 などにおいて、触れたか触れて居ないか分からない様な距離で相手に攻撃をヒットさせる技であり、寸止めを成立せしめるには、高い技量差が必要とされる。また相手をギョッとさせる程の極めがなければならない)

2007/10/28


■日蓮の書をみる~はじめに
  立正安国論・五輪九字明秘密義釈・歓心本尊抄


日蓮は、政治や経済が貴族から武士へと移っていった、鎌倉時代に漁民の子(日蓮本人が『観心本尊抄』で「海人が子なり」と言っている)として生まれ、日蓮宗を開いた僧です。

これまでの仏教は鎮護国家や貴族の為の宗教でありました。

1221年、後鳥羽上皇が承久(じょうきゅう)の乱を起こし、そして破れ、隠岐(島根県)に流され亡くなりました。後鳥羽上皇の亡くなった後、色々な怪異が起きました。これらの怪異現象は怨霊の祟りと信じられ、多くの人々が不安な日々を送っていました。
この様な庶民の不安を鎮める為に、多くの宗教が現れました。

 「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と唱えるだけで極楽浄土へ
 行かれると説いた、浄土宗の法然(ほうねん)。

 公案を解くことで悟りに達するとした、臨済宗の栄西。

 全てを捨てて阿弥陀仏の教えを信じれば救われると説いた、
 浄土真宗の親鸞(しんらん)。

 座禅をする事で悟りに達するとした、曹洞宗の道元(どうげん)。

 信じる心がなくても、念仏を唱えれば救われると説いた、時宗の
 一遍(いっぺん)。

日蓮は「法華経」こそが、釈迦の本懐であると、時の権力者、北条時頼(ほうじょうときより)に上呈したのが、「立正安国論」です。

次回から、具体的にその筆跡みていきます。
どうぞお楽しみに。

2007/07/25

  
筆跡歴史紀行-1~一休宗純~その人生と筆跡

  一休さんの愛称で親しまれている一休宗純の人生を、
  6回シリーズで解説しました。

■《線衝突型からみる一休宗純》~一休宗純 最終回

前回書きました〔線衝突型〕の特徴は、一休宗純の場合どうでしょうか?
 
全体に明るく、ほのぼのとした感じの書で、通常目にする「線衝突型」の字とは違いますが、一休宗純の書には至る所に線衝突字があります。

一休さんと言うと、私達は絵本やアニメの「一休さん」を思い浮かべますが、テレビなどの一休さんは江戸時代に流行った「一休咄」を基に作られた物です。
 
本当の一休宗純は堕落した僧達の暮らしぶりや、戒律や形式にとらわれ過ぎた庶民を救う筈の仏教の形骸化を、人間臭さに満ちた奔放な生活で批判風刺するという行動に出ています。具体的には、酒を飲み、肉を食べ、側女まで持ちました。時には外出時に朱色の鞘の木刀を、腰に差して歩く事もした様です。

現在、日本のお坊さんの多くは、結婚をしていますし、肉も食べれば、酒も飲みます。中には高級外車を何台も所有している人もいます。しかし、日本以外の国々の僧侶達は今日でも、酒や美食を絶ち難行と言われる修行を積んでいます。ましてや一休宗純の時代には誰しも、僧は修行により悟りを開いており、自分達の様な煩悩は持っていないと信じていました。一番信じていたのは、一休その人だったのでしょう。

それにしても大徳寺関係者を敵に回しただけでなく、世間の人々からも、精神的におかしいのではと、思わせるほどの行動は普通の者では、まず考えられません。

線衝突型の字を書くという事は、心で危険な事をしたい、または危険な状態になりたいと願っていると言う事なのです。

スタントマンの様に、危険な事をビジネスとする人以外は、線と線は重ならない様に注意しましょう。事故や怪我を避ける為、自分の字だけでなく、家族の筆跡も見てみましょう。
 
今回で一休宗純は終わりです。
筆跡学から見た一休宗純の人生はいかがでしたか?

2007/06/19

その3:線衝突型

《筆跡特徴で言う〔線衝突型〕について》

一休宗純の書の中に「無」の字の横線が、隣の行の「猶」の字に、「量」の字も隣の行の「獅」の字に接しています。この様に他の字と、線がぶつかり合っている文字を線衝突型と言います。

「無」の字の横線が長過ぎ行より、はみ出している事もありますが、普通の人だと隣の行を書く時、一番飛び出している横線の左端を改行位置として、次の行の字がぶつからない様に行間を取ります。また行間が取れない場合は、前の行の横線が飛び出している部分は字が重ならない様に、字間を開けて書きます。前の行の字を配慮するか、しないかの違いです。

例えば、山道を車で通っていた時、進行方向の道に木が倒れていたとします。
あなたはどうしますか?
車を止め、木を道の端に退けてから、車を走らせますか?
倒れた木が道にかかっているのを見ただけで、引き返してしまいますか?
倒れた木など、ものともせずに車を走らせ続けますか?

自分の進む道が木で塞がれ様とも、多少の損傷があろうが、気にもせずに突き進む深層心理、それが線衝突型の特徴です。

2007/05/19 

その2:縦線下部長突出型は、高い目標に向かって意欲を燃やす
 
〔縦線下部長突出型〕とは

大燈国師上堂語の最後の行の「昇」の字を見ていただけると判ると思いますが、最終画の縦線が用紙の半分の長さまで伸びています。この様に縦の線が下に長く突き出している文字の特徴を、筆跡学では「縦線下部長突出型」と言います。 
 

《筆跡学から見る一休宗純の志》

前回に引き続き一休宗純の人生と志を、筆跡の特徴である「縦線下部長突出型」から見てみましょう。

開祖、大燈国師の死後、大徳寺は徹翁義亨(てっとうぎこう)によって受け継がれますが、寺門は振るわず、このままでは衰亡してしまうだろうという時期にありました。この時、法嗣に華叟宗曇(かそうそうどん)が在り、そのまた法嗣に一休の法兄の養叟宗頤(ようそうそうい)がいました。

養叟宗頤は柔順温和で人と争う事がなく、生真面目な人柄であったようです。大徳寺経営の責任者として衰微した伽藍を再建する為、堺の経済力を導入してその復興を計り、大衆禅を標榜し禅を民衆の中に広め、在俗の多数の信者を門下に集めていったようです。康正3年(1457年)には後花園天皇から宗慧大照の禅師号も受けています。

このような人物であった養叟宗頤を一休は批難攻撃し、そして、自ら40年近い左遷生活を選ぶことになります。(2007/01/31号参照)
一休は、何故、このような行動をとったのでしょうか?

筆跡学から見ると、それは「縦線下部長突出型」の深層心理の影響と思わざるをえません。「縦線下部長突出型」の人は高い目標を掲げるという性格特徴を持っています。一休宗純の目標の高さは「昇」の字を見てみると、私達凡人の志とは桁違いな事で判ります。師であり祖父と慕った大燈国師の遺誡を胸に、一休が地位も名誉も求めず、生涯を狂人に徹しながらも、大徳寺の外から新風を巻き興すことで寺の復興を行っていたとしたら、皆さんはどうお感じになられますか。

                 在俗:出家とならず俗人の姿でいること。また、その人
                          広辞苑より

2007/04/02

■《一休宗純のこころざし》
~大燈国師

一休宗純は、「狂雲は真に是れ大燈の孫」と言っています。
狂雲とは自分の事であり、大燈とは大徳寺を開山した宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう:諡号を大燈国師という)の事です。

一休宗純が師と仰ぎ、また祖父とまで慕った大燈国師(だいとうこくし)ですが、その人物とはどんな人だったのでしょうか?

風貌は「気宇王の如し、人近傍すること稀なり」と言われる様に、でっぷりとした体形で眉を八の字に開き、剛直で意志が強く勝気な為、威圧感を覚えるほどの人であったようです。

初心始学士に与えた言葉に、『一切の是非に管しない志と勇猛の意志とがなくては出家の本旨は達せられるものではない』があり、また、遺誡の中では『たとえ寺門繁興し、仏閣経巻に金銀を鏤めることになり、多数の修行者が雲集したとしても、そこに仏祖不伝の妙道が失われていたとしたら、それは真風地に堕ちたということであり、そのようなことになっては自分の法孫であることを許さない』とも言い残しています。

このような大燈国師の近寄りがたい程の一超直入的な純粋さは、一休宗純に大きな影響を与えたようです。また、花園天皇にもおおいに慕われたと言い伝えられています。
                  
                     諡号(しごう):生前の行いを尊び死後に贈られる称号
                     気宇(きう):心のひろさ
2007/03/11

その1:大字小字混合型は、波乱に満ちた人生を選択する



《筆跡学から見る一休宗純》

それでは、一休宗純の人生を筆跡学からみてみましょう。

一休宗純の筆跡の特徴は、大字小字混合型にあります。大字小字混合型とは、一つの文の中に大きい文字と小さい文字が両方出てくることを言います。大字小字混合型は、字を書くという行動の中に常に変化を重視する姿勢が見えるのが特徴です。そのため、結果として波乱に満ちた人生を送る場合が多いとも言えるのです。

例えば、結婚式の祝辞に「人生は山あり谷あり・・・・」というスピーチがありますね。どなたの人生にも多少の浮き沈みは付きものです。しかし、この筆跡を持つ方の特徴的なことは、それ以上に人生に変化を求めたいタイプと言えます。同じ大きさの字を書く事さえ嫌なのです。言い方を変えると、安定した生活には魅力を感じないという事にもなります。変化に富んだスリリングな生活、映画「俺たちに明日はない」の主人公達の様でもあります。

若い頃、特に思春期の頃は誰しも、人生太く短く、面白おかしく毎日が過ごせれば・・・などと考えた事もあるでしょう。しかし、誰の助けも借りず自分一人で生きている訳ではない事に気付いたり、好きな異性ができて幸せとは何かと考え始めると、安定した人生を送る事が自分の行動に責任を持つ事に繋がるのではと、変化よりも安定を望む様になる訳です。変化より安定を望むようになれば、筆跡にもそのような変化が表れてきます。

ところが、一休宗純にはそのような変化が見られません。そのため、一生を通じて常に変化を求めてやまない姿勢を保っていたと思います。

2007/02/06


■《一休宗純の人生》


父は後小松天皇とも足利義満とも言われています。貴族であった母が南朝に属していた為、南北朝の動乱終結後貴族を追い落とされ、貧乏の中、一休(幼名・千菊丸)が生まれました。

6歳で安国寺に入門、13歳で漢詩の才能を認められますが、17歳では自殺未遂をおこしてしまいます。ところが、翌年、京都大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、一休の道号を授かり印可状を授かるまでになるのです。しかし、何故か、その印可状を辞退してしまいます。その上、『自戒集』という本の中で同門の兄弟子にあたる養叟宗頤(ようそうそうい)らを痛罵するのでした。そのため、大徳寺の非主流派として63歳まで小庵を転々とする人生を送ることになります。

これは、現代生活に例えれば、40年近くを左遷生活で過ごすことに等しいもの。極めて過酷な巡り合わせを持った人生だったと言えるでしょう。

その後、康正2年南山城(京都府綴喜郡田辺町)に酬恩庵(しゅうおんあん・一休寺)を創建します。文明6年には勅令により大徳寺の住持に就任しますが、一日のみですぐに酬恩庵に退き、88歳でこの世を去りました。

このように、一休宗純の人生は幼少のころから波乱に満ちたものでした。

2007/01/31  

《ひと休み》


自分の書いた字を見て、自分の年代、置かれている立場は、自分の人生のどの部分にあたるのか、そして今後どういった人生を歩みたいのか考えてみるのも良いでしょう。

    ~有漏路より無漏路へ帰る 一休み 
          雨ふらば降れ 風ふかば吹け~


                              有漏路(ゆうろじ):煩悩の世界のこと
                              無漏路(むろじ):悟りの世界のこと


これは、京都大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)より出された、『洞山三頓(どうざんさんとん)の棒(ぼう)』という公案に対する、一休宗純の答えでした。さて、あなたなら何と答えますか?
 
Graphology@Month- by Yukari Yanagisawa  
  
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